TOPICS

TOPICS

 ■ヨーロッパトゥデイ
 

 プライドを懸けた熱き闘い
 
2008年ベルギー勢がバルセロナINワンツー

 2003年にフォーシェ兄弟が制して以降、ベルギー勢はバルセロナIN優勝から遠ざかっていた。その間、オランダが2回、フランス、ドイツが1度ずつ勝利を浚う。そして迎えた2008年。東フラマンに鳩舎を構えるファンヘンドがIN優勝を遂げ、同州のファンケルクフォールドがIN2位に入賞を果たす。ベルギーはワンツー勝利によって、鳩王国のプライドを守った。

 

 ピレネーを越える理由

 かつて、イギリス人登山家ジョージ・マロニー(1986〜1924)は、エベレストに登る理由を問われ、「そこに山があるから」と言葉にした。有名なフレーズは、バルセロナに挑むレーサーにとっても同じかもしれない。スペインとフランスの国境を走るように聳え立つピレネー山脈。標高3千メートルの山々は、人間でさえ臆する自然の壁。しかしながら、放鳩地を飛び立った彼らは躊躇することなく、獣道へ突き進むのだった。
 理由など問いかけても、答えは返ってこない。ただ、考えられるのは1つ。阻むものがあれば乗り越えるしかない。持って生まれた帰巣本能がひたすらに住処を求め、彼らを突き動かすのである。これぞ、ピジョン・スポーツの究極。フライターは、その従順なまでの帰巣性に心を掴まれ、バルセロナというレースに駆り立てられるのだった。

 

 ピジョン・スポーツで活力を

 始まりは、第1次世界大戦直後にまで遡る。当時、ベルギーは終戦を迎えたとは言え、ドイツに侵攻された傷跡を残し、またヨーロッパ中がダメージを払拭できずにいた。時代背景の中で、愛鳩家は自由に飛び回る鳩に未来の自国を投影したに違いない。「戦前から親しまれてきたピジョン・スポーツを通し、活力を見出そう」。そんな思いから、ブリュッセルの有志がピレネー山脈越えを思いつき、1924年に初めてバルセロナからレース鳩が放たれたのである。
 第1回開催を制したのは、アルロンに鳩舎を構えるライトフォンスだった。以降、第2次世界大戦による中断(1939〜1948年)を迎えるまで、バルセロナヒーローはベルギー南部のワロニー地区を中心に誕生し続ける。そして1951年、アマチュア団体によって組織されてきたチャレンジレースは主催を『クールゲム・サントレ』に変え、公式レースのスケジュールに仲間入りを果たした。
 壮大な闘いの中で、劇的なドラマが数多く生まれてきた。1957年には、長年トップを独占してきたベルギー勢を抑え、ドイツのG・スタウトが勝利を収める。1961年はマルティン・クラウスが栄位を勝ち取り、オランダ中がバルセロナIN初勝利に沸いた。

 
   バルセロナIN歴代優勝鳩舎 Since 1924

2008年  23,695羽  ダニー・ファンヘンド   ( B )
2007年  25,820羽  メネ父娘          ( D )
2006年  22,887羽  H・ファントゥイル     (NL)
2005年  25,815羽  シリウ・シャスコウ    (Fr)
2004年  24,914羽  フローシュ&メイヤー   (NL)
2003年  20,204羽  フレレス・フォーシェ    ( B )
2002年  26,928羽  ルーク・ガーディーン   (NL)
2001年  25,760羽  S・ヘイマン         (NL)
2000年  26,597羽  ホートカメール共同    (NL)
1999年  28,095羽  ヨープ・トーレマン     (NL)
1998年  24,139羽  キップ父子         ( D )
1997年  24,908羽  V・ファンヒュースデン  ( B )
1996年  20,129羽  ウィレムス&トーネ    ( B )
1995年  20,925羽  ヘイゼルブレクト父子  ( B )
1994年  21,807羽  R・フェルボルグ     ( B )
1993年  33,145羽  ヤン・テーレン      (NL)
1992年  27,158羽  M・ビーマンス      (NL)
1991年  27,187羽  J&L・ファンロイ     ( B )
1990年  28,128羽  ウヴェ・ヘルメス     ( D )
1989年  25,502羽  K&D・ボーム兄弟   ( D )
1988年  21,194羽  W・ファンレーウヴェン  (NL)
1987年  21,736羽  ファノッペン         ( B )
1986年  18,076羽  シュローメル父子     ( D )
1985年  17,060羽  フェルビッシュ父子    ( B )
1984年  13,033羽  A・ファンブリアーナ    ( B )
1983年  12,146羽  ポール・ジルモン     ( B )
1982年  15,605羽  ペールスマン兄弟    ( B )
1981年  13,202羽  C・ヴィレヘルス父子   (NL)
1980年  13,636羽  J・ヘンドリクス      (NL)
1979年  12,201羽  R・ハイスリンク      ( B )
1978年  11,131羽  J・グリースぺールト    ( B )
1977年  10,502羽  R・クリステン       ( L )
1976年  11,016羽  ロジャー・フロリゾーネ  ( B )
1975年   8,301羽  A・カルベルト        ( B )
1974年  10,273羽  E・ズトール         ( D )
1973年   8,515羽  J・カーレンス        ( B )
1972年   7,293羽  D・ローラント        ( B )
1971年   7,384羽  M・フルス           (NL)
1970年   6,781羽  デズメット&リッペンス   ( B )
1969年   8,217羽  M&J・オプソメール    ( B )
1968年   5,348羽  ユルゲン・ロス       ( D )
1967年   4,876羽  ブランカールト        ( B )
1966年   4,343羽  A・ファンブリアーナ     ( B )
1965年   4,036羽  D・ファンドメール      (NL)
1964年  3,845羽 ド・ラード&ファングレムベルゲン( B )
1963年   3,599羽  A・ドマレー         ( B )
1962年   3,300羽  A・ドマレー         ( B )
1961年   3,578羽  M・クラウス          (NL)
1960年   4,441羽  A・モナン          ( B )
1959年   4,181羽  M・デズメット        ( B )
1958年   3,756羽  G・ファンデヴェッゲ     ( B )
1957年   3,350羽  G・スタウト          ( D )
1956年    895羽  O・V・ビールフリート    ( B )
1955年   1,480羽  デニス・アドニス       ( B )
1954年   1,910羽  リーセンス&レプリュー   ( B )
1953年     −羽  R・ファンデンベルヘ     ( B )
1952年   1,949羽  O・ド・フリート        ( B )
1951年   2,397羽  J・ボールス         ( B )
1950年     −羽  R・タント           ( B )
1949年   2,401羽  H・ベルレンジー       ( B )
1948年   1,200羽  M・ヴァイツ          ( B )

=1947〜1939年 第二次世界大戦のためレース中断=

1938年   1,049羽  A・バケット          ( B )
1937年     −羽  デルバール         ( B )
1936年   3,504羽  R・ホーカート          ( B )
1935年   4,029羽  ファンヘーン          ( B )
1934年   4,492羽  Dr.プート           ( B )
1933年   5,200羽  ストークレット         ( B )
1932年   3,711羽  ファン・コイリー       ( B )
1931年   5,036羽  ブクシン           ( B )
1930年   3,019羽  G・スタッサールト      ( B )
1929年   4,034羽  ド・カーク           ( B )
1928年   7,071羽  A・アッテルト        ( B )
1927年   8,251羽  シュマール          ( B )
1926年   6,350羽  フォンティグニー       ( B )
1925年   5,200羽  ファンデフェルデ       ( B )
1924年   2,256羽  ライトフォンス        ( B ) 

※B…ベルギー、NL…オランダ、D…ドイツ、Fr…フランス、L…ルクセンブルク

 

 オランダ、ドイツ勢が台頭

 アンドレ・ファンブリアーナ、デルバール、フロリゾーネ…。鳩界史に名を刻むフライターたちはいずれも最長レースを制し、バルセロナのスペシャリストとして名を馳せた。さらに、今なお語り継がれるのは、A・ドマレーの勝利。フライターは2年連続(1962、63年)で1戦を制し、快挙は『バルセロナの奇跡』として紹介され、世界を驚愕させた。
 70年代に入ると参加羽数は急速に増え、1万羽を越える。1987年からは2万羽台を維持。1993年には、過去最高の3万3145羽が参加し、オランダのヤン・テーレンがIN優勝を攫った。そして、いつしかベルギー常勝の時代は終わりを迎える。オランダやドイツといった遠距離地帯が台頭し、過去10年における国別優勝回数を見てみると、ベルギー1回、オランダ6回、ドイツ2回、フランス1回。数字は時代の変化をまざまざとつきつけた。とは言え、ベルギー勢が現状に甘んじるわけがない。レースマンはピジョン・スポーツ大国のプライドに懸け、ピレネー越えに耐えうる長距離バード作りに努力を惜しまなかった。

 

 5年振りにベルギー勝利!

 今年、注目の1戦は7月4日に放鳩を迎える。当日の天候は快晴。フランス北東部一帯に濃霧が見れるも、それ以上に気になったのはピレネーを越えた先の風向きである。北西の風が吹き、一陣は大西洋側に流された。遠回りを余儀なくされ、内陸部が劣勢を強いられる展開。上位が海寄りに集中する結果となった。
 勝利は、東フラマン・スメトレードに鳩舎を構えるダニー・ファンヘンド、IN2位入賞も同州のファンケルクフォールドである。ベルギー勢がバルセロナを制すのは03年以来、実に5年振りのこと。INワンツー制覇というオマケつきに、鳩レースの母国は喜びで溢れ返った。
 「自信なんてなかったよ。帰ってくるかだって心配で、早朝からレーサーを待っていたくらい。でも、姿を見せてからがもっと大変だった!」
 朝、4時45分に姿を現したメス鳩は、ダニーの焦りを他所に隣家の屋根へ止まったり、トラップの前で一休みしたり…。そして、ヤキモキはこれに収まらず、さらなる悲劇がフライターを襲った。事もあろうに、時計の電源を入れ忘れていたのである。とにかく走って時計をオンに。無事、レーサーが打刻したのは15分後、5時02分を回っていた。

 
 帰還時のドタバタもいい思い出と、笑って話すバルセロナIN覇者のファンヘンド。愛妻とも喜びを分かち合う。
 

 偉大なる父を越えた日

 銘鳩、ブリーブマン(79-4405394)を覚えているだろうか。81年にブリーブN4位に入賞した後も8歳まで現役を貫き、バルセロナN4回上位入賞、カオールN上位2回。最後の年には8歳の老体ながらバルセロナN9位、IN12位にランクインし、ヨーロッパ鳩界にその名を轟かせたレーサーである。実はダニーの父、アドルフはブリーブマンの作翔者。卓越した競翔手腕から真のバルセロナ・スペシャリストと高い評価を得る人物だった。偉大すぎる父。ダニーは2世という肩書きに重圧を感じながらも、乗り越えるべき宿命と自分に言い聞かせてきた。そして独立後は父から譲り受けた銘血を一歩離れ、試行錯誤を繰り返しながらコロニー形成を確立していった。 今年、フライターはIN優勝という華々しい活躍で父の背中を越える。殊勲鳩は無論、ブリーブマンの筋とは違った。宿命のライバルに勝つために選んだのはオランダ長距離血統。IN優勝の父は、メス親がヤン・テーレン系。さらに、近年活躍目覚しいフェルテルマン(07年ペルピナンIN優勝)の飛び筋、ローイエ50が挿入されていた。対して、母鳩はワイナンツ父子が誇った最高種鳩・ブラウヴェ・ファノーペンの近親バード。ファンデウェーゲンの銘血も色濃く絡み、まさに08年バルセロナCHはオランダの長距離ラインを凝縮した1羽だった。

 
 東フラマンの北部に鳩舎を構えるファンケルクフォールド・ファミリーがバルセロナIN2位に入賞を果たした。
 

 バルセロナの戦国時代到来

 隣国が輩出した銘血統はIN2位(ファンケルクフォールド)にも共通する。トップに食らいつき、オス鳩は分速1300メートル台をマークした。力強い羽ばたきは、単に風が味方しただけではない。父鳩に流れる長距離スピード血統。ファンデウェーゲンの基礎鳩、アウデ・ドファーチェの血が半分以上流れ、さらに異血として95年にバルセロナを制したローレア・バルセロナがクロスされていた。
 鳩の魔術師、アドリアヌス・ファンデウェーゲンが生み出した銘血からは無数のCHが誕生してきた。その点は、先に触れたブラウヴェ・ファノーペンも同じ。2羽はハードルを上げて鳩質向上に取り組んできた強豪たちの成果であり、オランダ全体にとっての『宝』でもあった。
 今年、皮肉にも自国が誇る長距離ラインでベルギーに敗れ、ダッチマン・フライターはやっきになって栄位奪取に目を光らせる。それは前年王者を輩出したドイツも然り。バルセロナを舞台にした闘いは、今まさに群雄割拠の時代を迎えた。

 
 
 
TOPICSヘ戻る