80年代初頭から実に4半世紀の長きに亘ってヨーロッパ鳩界に君臨し続けた絶対君主がいる。名はレイムント・ヘルメス。本業の方でも、小さな肉屋を一代でドイツ有数の精肉企業へと育て上げた、立志伝中の人物だ。構想力と実行力、そして貫徹力――。大成功を導いた類稀な資質を、彼は豊かな財力と共に鳩レースへ傾注。結果、編み出したオリジナリティ溢れる競翔理論は時代を超えて輝きを放ち続ける鳩界のバイブルとなった。
▲人生の苦楽を共にしてきた夫人と。
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◆信念の男◆
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ドイツの北西部に位置するハム市を拠点に、国際レースへ本格参戦しようとした矢先のことだ。鳩レースの師と仰ぐピート・デヴィールトはこう言ってレイムント・ヘルメスを諌めた。
「ここはいわば“シベリア”だ。鳩舎を移転しない限り、INレースで勝とうなどと思わない方がいい」。
鳩レースの師と仰ぐ偉大な先人からの箴言だ。敬うべきところは敬い、認めるべきところは認める姿勢を成功者となった後も崩さないヘルメスにしてみれば、かなり重かっただろう。だが、彼は肯んじなかった。尊敬の念を押さえつけてでも貫きたいものがあったからだ。それは他でもない、信念だ。
一事が万事、ヘルメスは己の信念を全うしてきた。どんなアドバイスも鵜呑みにはしない。情熱家だが、情に流されることもない。常に自分の頭で考え、自分で判断を下してきた。自分を信じること――それこそがまさに彼の信念だった。
信念は、常識をいくつも覆した上で練りあがった独特の競翔理論にももちろん浸透している。自身をフィルターにして濾過することで精製されたその理論は、いわば彼の分身だった。能弁家でもある彼の口からじかに説かれたら、誰しもがこう信じるだろう。数々の勝利は鳩が勝手に運んできたものではない、彼自身がその手でもぎ取ったものだ、と。あくまでイメージに過ぎないが、大方にそう思わせる競翔家は古今東西を見渡しても極めて稀だ。
残した足跡も尋常ではない。インターナショナルレース序列の最上位に、これほど数多く自身の名を刻み込んだ競翔家が他に存在しただろうか。しかも83年のポーIN優勝は、そこに鳩舎を構えている以上は限りなく不可能に近いとピジョンスポーツ界オーソリティに言わしめた、ハム市からの参戦で成し遂げた快挙なのだ。
豊かな財力に支えられた大羽数のスタッフ陣容が快挙達成の一因になっていることは確かだ。しかしそれを要因とみなすのは、一代で小さな精肉店を120店舗の支店を持つ巨大企業へと発展させた傑物に対する評価としてあまりにも浅薄すぎる。ヘルメスは鳩レースに没頭する余り遺伝学や衛生学から建築学に至るまで、鳩レースにまつわるありとあらゆる学問を学び、情報を収集しているのだ。
確固たる信念と、その信念に基づき全身全霊を傾注する姿勢。競翔理論より先に我々がヘルメスから学ばなければならないのは、その2つだろう。
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レイムント・ヘルメス鳩舎の主な翔歴
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1982年 |
マルセイユ |
N優勝
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1983年 |
ポー |
IN優勝
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ペルピナン |
N優勝
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1985年 |
ペルピナン |
IN2位(N優勝)、3位
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IN雌部門優勝 |
1988年 |
マルセイユ |
IN雄鳩部門2位(N優勝)
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1989年 |
バルセロナ |
IN3、6、13位
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マルセイユ |
IN7,8,9位
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ペルピナン |
N優勝
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1990年 |
バルセロナ |
IN優勝、2位
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ペルピナン |
IN優勝、4位
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ヨーロッパコープ |
2位
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マルセイユ |
IN雌部門優勝、2位、3位
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スーパーカップ優勝
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西ヨーロッパスーパーマラソン優勝
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1991年 |
ダックス |
IN優勝
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1992年 |
バルセロナ |
N優勝(当日帰還)
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マルセイユ |
IN優勝
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1993年 |
マラソンレース |
IN優勝
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ダックス |
IN優勝、3位
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1994年 |
ダックス |
IN雌部門優勝(N優勝)
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マラソンレース |
N優勝
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1995年 |
ペルピナン |
IN雌部門優勝(N優勝)
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1996年 |
ポー |
IN優勝
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1997年 |
ダックス |
IN優勝
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※以降2008年まで毎年INレースで最上位入賞を継続中。その強さは今なお衰えることを知らない
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〜ヨーロッパ帝王への道を 拓いた伝説の源鳩〜
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“ピート”
B76-6371889 PBW ♂
(1991年撮影) |
父/オード・ファンデンボッシュ
B67-6729926 PCW モイレマン鳩舎基礎鳩
母/ブラウエヤンセン B66-6122203 B ヤンセン・アーレンドンク作
フランシス・マリアン鳩舎種鳩
※ゴールデンカップル 直子は他に“カデット”、“プリンス”、“ジュニア”、“ダイガー”、“ウィットノイス”など。ヨーロッパ鳩界に多大な影響を与えた銘鳩を多数輩出
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◆選鳩◆ |
――あなたにとって良い鳩とは?
「一言では言えません。鳩の良し悪しは複合的な問題です。タイプに関係なく、良い鳩にはだいたい次のような共通点があります。
良い喉、強い筋肉、良い翼、表情に富んだ目、絶対的な健康、抜群のバイタリティ、そして不屈の性格。
鳩を的確に判定するには、長年の経験が必要です。子供の頃から慣れ親しんでいるのが理想的ですね。私自身、レースに本格参戦するようになったのは70年代の半ばですが、9歳のときから身近に鳩がいました。
要点としてはさきほどの7点になりますが、もう少し具体的に話さなければ分かりづらいでしょうね。例えば筋肉はただ強靭なだけでなく、しなやかで長くなくてはなりません。羽は、てこの原理を効果的に活用するために短い上腕、細い尾翼、風を良く切る手羽――特に最後の4枚が肝心になります。
目については、まるでフクロウのような目を重んじる傾向が強いですが、私は猛禽類のようなそれを好みます。つまり横から見て瞳孔がやや斜視気味に前方へ偏っている目、ということになります。なおかつ血色が良いこと、生気に満ち溢れていることがポイントです。
バイタリティも重要です。私は活きの良い鳩を掴むのが大好きです。ただここで大切なことは、活きの良さと興奮状態を取り違えないこと。人に掴まれると鳩は驚きと興奮から動悸が早くなるため、バイタリティの判定は安静状態で行うべきです。ピート・デヴィールトが用いる、くちばしの先端を引っ張るという方法も有用だと思います。
しかしなんといっても最たる要点は、不屈の性格に尽きます。性格は先天的なもので、生まれた後でいかにハードな訓練を施しても身につきません。これを見分けるには、並大抵ではない試練を与える必要があります。私のロフトでは、選手鳩なら若鳩のときに投じるマルセイユのレースが、雌の種鳩なら全面が金網の鳩舎で1年間風雨に耐え続けることがそれに当たります」
――ドイツ国内を制覇し、世界へ躍進する原動力となった“ピート”は理想的な形でそれらの条件を満たしていた?
「理想的とは言えません。ピートは低いフォルムと秋季のキジのように広い胸を持った恐ろしく力強い鳩で、ボールを寄せ集めたような筋肉を身にまとっていました。なかんずく上腕部の筋肉は惚れ惚れするほどで、厚みはおそらく並みの鳩の優に倍はあったでしょう。ただ惜しむらくは、尾翼が短く幅広だったこと。子孫のすべてにその特徴が遺伝しなかったことは幸運としか言いようがありません。おそらくホモ接合(同型接合)ではなくヘテロ接合(異種接合)がもたらした特徴だったのでしょう。つまり彼の両親の内で幅広の尾翼を持っていたのはいずれか片方だけだったということになります」
――ホモ接合の結果かもしれないリスクを承知で導入した?
「あえて導入した理由を聞かれると困りますね(笑)。掴んだ感触が抜群に良かったことと、ピートを導入する前に彼の全兄弟をマリエン・モイレマン鳩舎のオークションで手に入れようとして競り負けたことが潜在的な理由になってはいるのでしょうが、実際のところは直感というかフィーリングというか、理屈ではない何かが彼を選ばせたとしか言えないからです」
※競り負けた相手は、ゴメール・フェルブルッゲン。彼が落札した鳩は後に“ウィットノイス”と命名され、存在価値を大いに示すことになる。
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ハム市にあるヘルメス本社。屋上部分に国内レース用鳩舎と国際レース用鳩舎の2棟が設置されている。 |
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◆配合◆ |
――配合に関しては独特の方式を採っているようですが。
「例えばピートのような素晴らしい雄には、配合の1サイクルとして6羽の雌をあてがいます。配合する時間は1羽につき1時間。交尾のチャンスはその間、1度だけです。そのため巣箱の中を注意深く観察していなければなりません。
ちなみにその6羽が、ただ血筋が良いだけの雌でないことは先ほどお話した通りです。系統や体型などのチェックで何度もふるいにかけられたあげく1年間雨ざらしの試練をも乗り越えた、心身ともに屈強な女闘士たちです
生まれた卵は仮母に委ねます。雌種鳩に育雛は一切させません。十分な休養を与え、次の配合に備えさせます。誤った認識からこの繁殖システムを完成させた当初は各方面からずいぶんと非難されましたが、実は競走馬の馬産や蓄牛の方法論から学んだ極めて合理的なものであり、なおかつ計画性の高い方法と自負しています。私のロフトではこの方法により主な雄の種鳩1羽に対して年間平均30羽の雌をあてがっています。ちなみに最高記録は108羽です」
――軸にしようとしている選手鳩が雌だった場合は?
「例えばバルセロナNで2度優勝した“バルセロナ・ヴァンダー”を導入したときは、まず相方としてポーIN優勝鳩と、ナハトフリーガーとその父親の3羽を選定しました。それぞれがバルセロナ・ヴァンダーに負けない資質を持った、すこぶる優秀な雄鳩たちです。生まれたヒナは基本的に近親交配――異父兄弟に異父姉妹をかけるという形でペアリングし、純系のラインを創り上げた上でロフトの主系統に絡ませました。これは経験則から編み出した、3年後に軸となった鳩と同等の記録鳩を何羽か生み出す方式で、予定が大きく狂ったケースはほとんどありません。いずれにせよ種鳩を厳選して集中的に作出するということにおいては軸が雌でも雄でも同じです」
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◆管理◆ |
――管理において重要なポイントは?
「第1に鳩舎環境です。通気と湿度がコントロールできない鳩舎では良い結果を望むことはできません。私は自然換気を重視してルーバで風量を制御していますが、ファンによる強制換気も併せて行っています。湿気対策は、温水の循環か床暖房で講じています。両方とも湿度が規定値を超えると自動的にスイッチが入る仕組みです。湿度は病原菌の繁殖にも密接に関わっていますので、最大限の注意が求められます。最適な湿度は50から60%でしょうね。
次に餌と病気対策に関してですが、何よりも肝心なのは鳩の状態を日々、細かくチェックすること。その目が確かなら、投薬量は最小限に抑えることができるし、餌に関しても量や内容を誤ることはありません。そもそも病気に関しては予防や治療を考えるより、病気に罹りづらい体質作りを第1に考えるべきです。電解質、ビタミン、ミネラル、糖、アミノ酸などを定期的に与え、抵抗力をつけさせると同時に一定以上のコンディションを維持させるのが、病気対策としては最も賢明な方法だと思います。また罹病した場合の早期発見のためにも、もし可能であれば検便や、甲状腺と喉の粘膜の点検は定期的に行った方が良いでしょうね。
餌は自分で配合したものを与えています。特徴としては、バーデン産のトウモロコシを使っていることと、えんどう豆やそら豆といった豆類をふんだんに配合していること、レース直前にライスとトウモロコシをベースにした飼料を与えること、の3点でしょうか。配合率や内容はもちろん、ケースバイケースです。
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◆訓練◆ |
――訓練に関しての要点は?
「最も大切なのは若鳩の基礎訓練です。ここで手を抜いたら、必ず後悔することになります。ぐらついた土台の上に何を積みあげても無駄だと考えるべきです。私のロフトではまず1キロから始めて徐々に距離を伸ばし、その都度放鳩地の方角を変える等の細かい手順を辛抱強く踏んでいます。放鳩時間にもこだわっており、未明や、空が明るい内には絶対戻れない時刻にあえて放鳩することもスケジュールに組み込まれています。言うまでもなく、翌日帰りの長距離レースを想定した訓練です。
最終的には200、300、400、500、840キロを各1度ずつ経験させます。最後の840キロはマルセイユからのレースで、若鳩をこれに参加させるのは動物愛護の精神に反するとの批判をよく受けますが、私に言わせればろくに基礎訓練を行わずに短距離レースへ投じる方がよほど非情です。綿密な基礎訓練を行っているため私の鳩は総じて帰巣性に優れ、すべての訓練を経たあかつきには他鳩舎の鳩に比べて経験の上でも大きなアドバンテージをえることになります。ただ若鳩の段階では雄は雌に比べて抵抗力が弱く、成長も遅いので、その点は留意しておくべきです」
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◆心得◆ |
――鳩舎位置において大きなハンデを背負っているにもかかわらず、あなたは国際レースの檜舞台で他に類を見ないほどの大成功を収めました。何か秘訣があるのですか?
「かつて、その名にちなんで源鳩に命名するほど敬愛しているピート・デヴィールトは、私にこう言いました。『ここはいわばシベリアだ。インターナショナルレースでの勝利を目指すなら、鳩舎を移転した方がいい』。しかし彼は、不可能だ、と断言したわけではありません。極めて困難だ、と的を射た忠告をしてくれたに過ぎないのです。困難であることは私も重々承知していましたし、ごく普通のやり方で臨んでいたらおそらく勝利は絶望的だったでしょう。
しかし困難だからといって打開の糸口を探ることすらせずにきびすを返すぐらいなら、そもそも私は鳩レースに関わらなかったでしょうし、その余裕もなかったでしょう。そんな姿勢では本業の方も一進一退でうまく伸びなかったはずですから、鳩レースに没頭する経済的・時間的なゆとりが生まれる余地はありません。
肝心なのは自分で考え、自分で判断することです。たとえ人に絶対不可能と言われても自分で確かめるまでは肯んじないぐらいの頑固さが、鳩レースだけではなく人生においても必要だと私は考えています。それと、どうせ何かをやるなら片手間ではなく、全身全霊を傾けることです。片手間では、やったことが実を結ばないだけでなく、面白みも分からないのではないでしょうか。成功の秘訣を問われて私に言えることがあるとすればその2つだけです」。
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