TOPICS

TOPICS

 
 ■レジェンド
 


LEGEND 「ミュニィエ」 のいた時代
断章 それぞれが語る LEGENDミュニィエ

 


1963年7月2日付。岩田孝七氏からミュニィエ号のニュースが初めてもたらされた(94頁) 1965年、ミュニィエ号と最後の別れをするデボス氏。バスケットには「TOKYO」の文字(94頁参照)
1963年7月2日付。岩田孝七氏からミュニィエ号のニュースが初めてもたらされた(94頁)


65年2月、ドマレー夫妻を訪問した並河靖氏・右端。背景の額にはミュニィエの絵が飾られている(92頁)


65年4月、愛鳩の友社にて。先に導入されていた
父鳩を持つミュニィエ導入者の大田誠彦氏・右と
のちの飼育者となる宮沢和男氏(96頁)
ピート・デウェールトの著書の表紙に使われたのはドマレー氏が撮ったミュニィエ号(102頁)


 上のイラストは1973年3月号に掲載されている、読者の手になるものだ。その年1月24日に、今回のレジェンド(伝説)の主「ミュニィエ号」は満14歳の生涯を閉じた。7年間の飼育者であった宮沢和男・弊社創立者は、『ミュニィエ号の死を悲しむ』と題された惜別の記事を掲げている。
 さて、くだんのイラストである。この一枚が寄せられた、今からちょうど40年前あたりに同じく鳩少年時代を過ごした諸兄ならば、ノートの片隅に描いたことがあるやもしれぬ、おなじみのポーズではないだろうか。
「背幅をわずかに見せ、ななめ上方から撮った理想的なポーズで、永遠に残るミュニィエ号の最高傑作」。第1の導入者デボス氏により残された写真が、そのモデルであることは明白だ。
 多くのフライター、多くの鳩少年に愛された半世紀前のスーパースターを、各人に語ってもらう。
 ミュニィエ号のレジェンドとは?

 

 

詳しくは愛鳩の友季刊春号 90ページをご覧下さい!


TOPICSヘ戻る